介護 53才ムスメの日記

8353母娘 日々精進の日々です

手術の日 

今日は、こちらは晴天でした。
すこし風があって、肌寒さはあったけれど、さわやかないい日でした。

こんな日、母はどうしてるんだろ。
日光には当たれているだろうか? 

二人で住んでた時(つい2か月前ですけど)、
母の後頭部にお日様が当たるように、少し体を傾けながら 車いすを押してたのを思い出します。

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母63才くらいの時の多発圧迫骨折。

手術が決まってから、本人は病棟では、落ち着いていて スタッフの方とも朗らかにしていたようです。

病棟生活には、きびしく制限がかかりましたが、病名が分かって、手術できることもわかって、「ダイジョーブ」って言うんですよね(^^;。。。

どの口が言った?

 具体的には、ベットの背もたれの上げ角度を、ここまで!っていう角度厳守です。

食事や着替えの時も なるべく脊椎に負担がかからないように 、ナナメって行う感じ。髪をとかすのも、歯を磨くのもナナメ。起きちゃダメ、ゼッタイ。

そして、手術日当日。私と妹が「頑張ってね!」と言う中、ガラガラとベットに乗って行きました。

・・・・・・・・・・


2人になった廊下で、この後 妹が言った言葉にかるくショックがありました。

「ご飯食べに行こうか」

扉が閉まって、ほぼ直後です。

Drに、手術は4時間程かかること。
潰れた骨にセメント(的な?)で強度を出して、脊椎の左右にチタンを2本入れること。
不測に備えて、待機していること。

一緒に説明聞いた・・じゃん(˘・_・˘)

てか、いま、この感じで食べる気にはならんよ。

本人は覚えてないでしょうけれど。
なんとゆうか、その場からすぐ離れるっていう気持ちに、すごく温度差を感じたんですよね。


妹は決して 軽んじている訳じゃなく、
(お腹がすいてるんでもないらしかった^^;)

4時間もあるならご飯食べてお茶飲もう。お疲れ様、おねえちゃん。ありがとね。

という、ニュアンスだったんだろうと思います。

私が勝手に、大きな手術に対する(母に対する?)温度差を感じた。


いま、手術じゃん?ここにいようよ。みたいなことを言ったと思います。

しばらくしてから、別々に軽食だけ済ませました。


妹は家庭を持っていて 大変なことたくさんあるだろに・・っていう気持ち、
わたしこの時無くなってたのかもしれません。

多発圧迫骨折 やっとでた診断名⑤

入院して10日くらいかかって やっと診断名がつき、手術は10月下旬となりました。

その時の先生がスムーズに段取りしてくださり、手術への道筋ができ、自分の呼吸ができた感じです。

遅まきながら 八方ふさがりって、渦中にいるときは分からないもんなのですねぇ🤨

父の付き添いで、最後の4か月 入院先の病院に寝泊まりしていた時も、大変だったしつらかったけど、何がどうしていいのか分からない、というのではなかったんです。

それが、数か月でどんどん変わっていく母には、もうこれ以上はどうするのがいいのか分からなかった。

タクシーの運転手さんが行ってくれた病院が、もし違うところだったら・・もし違う対応されてたら・・
またそれから家で見れただろうか?

もう、天から降りてきていた糸を掴めたとしか言いようがありません。感謝いたします。


でも、現在では多少 世間一般には周知されてきている(と、私的には思われる)圧迫骨折が、なんでここまで分からなかったんだろう??

あれだけ潰れていればどこかで、だれかのDrが気づかなっかったもんか?
縦割りの科で、自分の範囲(臓器)が異状なければ良しなのか?
つらい体で大腸・胃のカメラをするって苦しいんだゾ!!

そんなに難しい診断なのか?


なんて、感謝してるので言いません。

そこに至るまでにかかった病院へのうっ〇んが出てきたのも、病名が分かったおかげでしょう。

圧迫骨折がなかなか分からなかった(母の場合)④

夜間救急にタクシーで連れて行ってもらい、
入院することができました。

先生は問診しながら、「今までどうしてたの?」「どうやって連れてきたの?」なども聞かれました。 
「入院して まずは原因を探す、、からだね。」 まだ不安でいっぱいだけど、連れてきてよかった。

9月23日。
これも しょうもない すり込まれた記憶ですけど、忘れらんないんですよね^^;。

病棟に行った母は、一人でトイレに行こうとして、床にうずくまって 同室の人にナースコールしてもらった、なんてことも何回かあったようです。

この期に及んでやめておくれぇ、せっかく病院入れたんだから(←心の声)

そして検査が始まりました。 毎夜に通っていた私に 経過を教えてくれるんですけど、なかなか分からなかったんです。


大腸カメラ 胃カメラ、各種血液検査、もちろんレントゲンも撮ったでしょうに。

腎臓の検査もして、石があるけど、尿道に出てきてないから痛みはないはずだし まだ分かりません。というのが10日~2週間くらい続きました。


そしてやっと、やっとこさ、整形の先生が

「圧迫骨折です。完全に潰れているのが2か所。その他の骨も 腰のほうに行くにつれて変形しているところが複数あります。あと、首もですね。多発圧迫骨折って言います。」

あーーーそうかーーー。

何の知識もない私ですけど、その病名を聞いただけで腑に落ちました。
今までの経過と病名が手を結んだ感じ

それからは先生の説明と手術になること。
おおまかなリハビリへの流れ。
早く手術したほうがいいとのことで、
その場で手術の日が決まりました。

圧迫骨折のはじまり(母の場合③)

母が動けなくなって2か月くらいしたころ、
どうしようもなくなりました。


その時は介護保険の年齢でもなく、引っ越して1年ほどの地でもあったので、大げさでなく 二人で路頭に迷う心持で。。。

ある夜、母をトイレに連れて行こうとして、抱き合ったまま崩れ落ちちゃって。
もう体力もメンタルも今後の心配にも、なんの方向性も見えなくなって。

そのまま大声をあげて泣きわめく、悲嘆する、ひどく痛がる・・母をどうしていいのか分からなくなってしまいました。

救急車呼ぼう!
私は治してあげられないもん、ね?
もう一回見てもらおう?

とお願いして、

救急車はヤダという母をなだめて、
タクシーを呼びました。。もう何でもいいから、自宅ではだめだ、という思いしかなかったです。

よく覚えてないけど、どうにかタクシーに乗せて、(確か当時、通販で買った車いすを家に置いておいた覚えがあります)

病院も近隣の救急病院は行ったから、運転手さんにもう少し範囲を広げた大きな病院を聞いて連れて行ってもらいました。

観光地のおいしいお店探しみたいだな。と今思いました(^^:

まともに座れない母の頭を膝に抱っこして、走ってもらう夜の道は長くて不安でした。

少し離れた市の、名前は聞いたことあった病院。深夜の救急外来って、なんであんなに薄暗く感じるんだろう。

名前を呼ばれて、先生のまえでいきさつを話しました。
母は口は達者なので先生も軽く
「じゃあベットに寝てみて」って言ったんですけどね。

先生が支えようとしてくれましたけど、全体重が下へ落ちるのは、もう仕方がなかったです。

でも、どこの病院も言ってくれなかった「入院ね」の一言。

一瞬で言ってくれました。

ああいうときって、ハッキリと脳に刻まれてることってありますよね。

その時の夜間対応の先生が‵消化器科のDrだった・・なんてしょうもないことまだ覚えてます^^;。

そのあと、ベッドで運ばれていく母を見たり、看護師さんに説明聞いたり。

原因はまだ分からなかったけど、とにかく何かの一歩にはなったのかも、と思いながら帰りました。

東京おこめクーポン

東京都からお知らせが届き、申し込んでいたお米が届きました!

ありがたや~~🙂

母の所得とか、年齢もだったかな?該当するので申し込めるようです。
希望のコースは先着順との事。

①お米25キロ 2回配送コース
②お米25キロ 3回配送コース
③お米とお野菜コース
④お米と飲料コース
⑤お米とパックご飯コース
⑥うどん&飲料コース

などがあり、
うちでは②お米10㌔×10㌔×5㌔

を申し込んでいたのですが、1回目のコースが届きました╰(*°▽°*)╯🍚🍚🍚

お知らせではハガキとQRコードで申し込みできましたが、一瞬の迷いの後、QRコードで申し込めました。

世の中色んな申し込み方法がありますけれど、QRも一瞬たじろいでしまう・・・

いまさら、どんだけアナログなん?
って自分でも思っちゃうんですけど、
いかんせん仕方がない😒

ハガキも同封ってとこに、配慮を感じるのでそこはさすがお役所です。

2か月ごとに届いて、事前にメールでお知らせしてくれるので、間違って買ってしまうのも防げます。

母がいなくなっても、外食はほぼしてないし毎日お弁当。大事に食べさせていただきます!


届いた段ボールをあけて、父の仏前に供えました。
今日はスペアリブを作ったので一緒に😊

母が一緒にいないのは切ないけど、
穏やかに一緒に食べられたらいいなとおもいました。

圧迫骨折のはじまり(母の場合)②

昨日の続きです
yosa8050.hatenablog.com


父が亡くなって数か月したころ、母の動く様子が遅く、重く、なりました。

私が最初に、ボヤーっとした違和感として感じたのは、椅子からの立ち上がり。

「ううーーん!」といって、力も時間もかかる。


そのうち、ベットから立ち上がる時に、力が入らなくて 生まれたての子馬のアノ感じ。

プルプルって耐えて、駄目だと座る。 その回数が増えて行って、私を呼ばないとトイレに行くにも 1歩も出なくなってしまった。

手引きでしか歩けなくなって、それも無理になったら廊下でヨレヨレと座り込んでしまう。
何とか引きあげる感じで トイレに連れて行くにも 便座に座らせるのも大変だった。
だんだん痛みも出てきて、おなかが痛い、おなかが痛いとよく言っていた。

圧迫骨折なのに なぜ、おなかが痛い と訴えたのかわからないけど 実際に便通も悪かったし、からだもむくんでた。

本人もたくさん病気をしてきて 分からなくなっていたのかもしれないけど。

だけど、歩けないとおなかも動きにくいし、膠原病科から痛み止めがずーっと出ていて、
背中の痛みが分かりにくかったのもあったと思う。

たくさん病気してきてると、飲んでる薬とか先入観の陰にかくれて、探している今の状態は何なのか、見つけにくいという事、たくさんあると思う。




その当時 母は63か64才だった。
今考えると 若いなーーー。 

「うーーん」と立ちあがるのに難儀するようになってから「ヨレヨレ」と歩行中に座り込んでしまうまで2か月くらいあったと思うけど、もちろん病院に行った。

おなかが痛いという母の話を真に受けて、内科 へ・・・

なんでだーー!当時の自分!!

と、思うけど「内臓のせいだ・絶対に・どこかが悪いんだ」と言い張る母上。言われるがまま暗示にでもかかっていたとしか言いようがない。

もちろん膠原病科、腸閉塞もしてるから消化器科、 肝臓の数値が悪いといわれればその検査・・・どんどん歩けなくなっていき、ベットから起き上がれなくなった。

もう、本当にこの時は母も私も不安で仕方がなかった。
どこの医者に行っても、悪くないと言われる。どこに頼っていいのか ポツンと二人だけ孤立してしまった。



私の職場は、徒歩通勤で片道15分。午前の仕事がおさなければ 昼休みに帰ってきて、食事やトイレ、会話で様子を聞き「頑張って!」と言って戻る。滞在20分くらいだけど何とかなった。 

仕事が終わると ドキドキしながら急いで帰り おそるおそる母に声をかけて。よかった、返事してくれる。大丈夫そうならすぐご飯の準備にとりかかる。苦しそうなら足をマッサージしたりする。


体がつらいのだから仕方がないけど、手を借していても言葉もきつく(-_-)、
母はまだ、自分のことは何とかしようと奮い立たせているようだった。


不安な生活だったけど、今でもときどき脳裏にふわっと湧き上がってくることがある。
ある朝 ベッドのそばで「行ってくるね」と、声をかけると 私のほっぺに皺しわの手を当てて、やさしく「しっかり働いてくんだよ」とにっこり微笑んだ。
私はぎゅーっと母を抱きしめて「うん」と言った。

働けない父を支えてパートで家族を養ってきた 母の気骨を肌で感じた。
私はきっと一生この時のことを忘れない。

圧迫骨折のはじまり(母の場合)①

昨日の記事

yosa8050.hatenablog.com
の、圧迫骨折って、今はいろんなところで聞いたり、
病院にポスター貼ってあったり ご年配が近くにいなくても 知っている人が多いですよね。

でも、20年前は今ほどではなかった気がする。

もちろん、有名な疾患で 知っていたり、身近にその病気の人がいたり。
世の中では一般常識的だったかもしれない。
私が知らなかっただけってことだとおもう。

でも、父にも母にも持病がうんとこさあった私には 
新しい何かの病気 なんて頭に浮かばなかった。

もともと、持病のシェーグレン症候群で、関節が腫れたり 体中に痛みが出たり ひどい倦怠感があるからそのせいだと思ってました。

3科くらいの通院をつきそって、

出された薬やシップや目薬について、これじゃだめだ!という母の希望を先生にお願いにいき、処方しなおしてもらう、ってのが日常茶飯事。

母と暮らし始めて間もないので、バトルも多々あった。そんななかで、気持ちに余白は全然なかった。


これは母の場合で、それぞれにみな違うと思うけれど、
うちのケースとして書いてみたいと思う。


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父が亡くなってしばらくしたら、
母の動きが重たくなった。

遅いとか、痛そう、ってよりも重い
「うーーん」とうなって動き出すって感じ。

体の向きを変えるとき、歩き始めるとき、トイレでの動作、寝返り。
顔や肩だけ動いて そこから下がついてこない。

複合的に 体調が悪いんだな、としか捉えられなかった。

そのうち、歩くとヨレヨレと沈むようにへたり込んでしまう。
力が入らない、歩けない。 なぜか分からない私はとにかく不安だった。

「うーーん」から「ヨレヨレ」まで1~2か月だったと思う。

痛みが出てきたのはもう少し後だった。